元親公の四国平定の途は、実に当神社の馬場先よりはじまったと申せましょう。
なお、高知市一宮の土佐神社は元親公の凱旋報賽社として崇敬せられ、御社殿は当社とは逆の入蜻蛉(いりとんぼ)式建築になっております。
元親公が土佐守として浦戸城に居城するに及び、特に当神社を西ノ宮と称え、歳月の祭儀を厳重に執行せられました。更に慶長5年(1600年)山内一豊公が新たに土佐国主に封ぜられ、当初浦戸城に、その後大高坂城(後の高知城)に移られてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として年々の祭典はもとより、藩主の交替毎には社殿の修理が官費をもって行われました。
明治維新後は山内藩との関係も絶え、明治6年(1873年)郷社に、更に昭和5年には県社に昇格され終戦を迎えました。戦後はこうした社格もなくなり、宗教法人若宮八幡宮として、長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜地区の総氏神、更に又、厄除け開運の神、安産の神、雨乞いの神等として、近郷近在の里人から広く信仰を集めております。